びわ湖 湖畔旅行記(8)<近江八幡 水郷舟巡り> [近畿地区]
びわ湖 湖畔旅行記(7)<近江八幡 八幡堀> [近畿地区]
びわ湖 湖畔旅行記(6)<近江八幡 町並み散歩> [近畿地区]
びわ湖 湖畔旅行記(5)<水生植物公園> [近畿地区]
びわ湖 湖畔旅行記(4)<浮御堂~近江八幡> [近畿地区]
びわ湖 湖畔旅行記(3)<山王総本宮 日吉大社> [近畿地区]
びわ湖 湖畔旅行記(2)<琵琶湖疎水~比叡山山麓> [近畿地区]
びわ湖 湖畔旅行記(1)<山科 勧修寺> [近畿地区]
琵琶湖 湖北路の旅(8)<観音の里 高月> [近畿地区]
琵琶湖 湖北路の旅(終章)
<観音の里 高月>
長浜市高月の周辺には、観音菩薩を守る堂が50ヵ所ほど有ると言う
ここ奥琵琶湖は、姉川・賤ヶ岳・関ヶ原など歴史に残る合戦が行われた地域です
兵火を避け或いは燃え盛る炎の中から、村民たちが守り抜いた観音菩薩を
地域の人たちが無住の堂に大切に維持保存し、観音の里と呼ばれている
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記事が長くなりましたが、どうぞご覧ください
<旅行日:5月10日>
観音めぐり
今回の「琵琶湖湖北路の旅」で、最も行きたかったのは観音の里高月でした
旅行最終日、ワゴンタクシーを4時間の予定で契約し観音巡りをした
無住の観音堂は地域の人たちが交代で管理、予め拝観を電話で依頼する
上の資料は、長浜市観光振興課の「長浜ガイド誌」をコピーさせて頂いた
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西野薬師観音堂
<薬師如来立像・十一面観音立像>
延暦年間(782~)、西野地区に天台宗泉明寺があり、伝教大師最澄が
薬師如来、十一面観音を納めたと伝わっている、その後度々の戦乱で荒廃
1504年の兵火で堂宇は焼失したが、仏像は村人が助け出し今日まで守っている
<西野薬師観音堂は「無住の堂」・・電話で拝観を依頼>
堂守当番の方が堂の扉を開け待っておられ、私たちを厨子の正面に案内
仏像を安置した厨子の幕を開けると、十一面観音と薬師如来が目前に現れる
厳かな雰囲気のなか20分ほど説明して頂いた、6名の方が交代で当番をする
<十一面観音菩薩立像(左) 薬師如来立像(右) 重要文化財>
十一面観音は、右足を浮かし気味にして衆生教化の姿をし飾り物が少ない
薬師如来は薬壷を持たない珍しい姿である、頭頂分は焼けた後が残っている
西野薬師堂で購入した「桑の木の箸」
十一面観音と薬師如来の名が刻まれている、早速使用しているが軽くて良い
仏像の写真は購入した絵葉書のコピーです
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赤 後 寺
<千手観音立像・聖観音立像>
日吉神社の境内寺、本尊は千手観音立像と聖観音立像 重要文化財
2躯の仏像を安置した重厚な厨子は、彦根築城の総奉行木俣土佐守が寄贈した
日光陽明門の造営に関わった宮大工は、この厨子を参考にしたという
<赤後寺も「無住の堂」・・電話で拝観依頼する>
災い転じて利となすという、転利(コロリ)観音と呼ばれ、三回参詣すれば
天寿を全うしコロリと極楽往生でき、安産、眼病にもご利益があるという
<千手観音立像 重要文化財>
千手観音像(写真下)は腕先を失っている、姉川・賤ヶ岳の戦火を避けるため
村民が赤川に埋めて隠したが、氾濫のときに千手観音の腕は流され
そして顔はただれ、痛ましい姿をされていた (赤い丸と矢印)
冷水寺も、拝観依頼(中央の坐像↑↑)をしたが当番の方の都合が悪く断念した
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渡岸寺観音堂(向源寺)
<国宝・十一面観音立像>
天平8年(736)、都に流行した疱瘡を聖武天皇が泰澄に除災祈祷を命じた
泰澄は十一面観音を彫り、光眼寺を建立し息災延命の祈祷を行い憂いを絶った
後の延暦9年(790)、伝教大師最澄は勅を奉じて七堂伽藍を建立したという
元亀元年(1570)、浅井・織田の姉川合戦のとき、堂宇はことごとく焼失したが
時の住職巧円と近隣の住民は、観音菩薩を土中に埋蔵して難を逃れたと言う
巧円は浄土真宗に改宗し向源寺を建立した、今は奥の白い慈雲閣に収蔵
<最高傑作と評される・・「国宝十一面観音立像」>
日本全国に七体ある国宝十一面観音の中で最も美しいとされ、日本彫刻史上の
最高傑作といわれている、祈りの仏に相応しい慈愛に満ちた姿の観音様である
<男女どちらに見えるかと説明者に聞かれたが、私は女性の優しさを想像した>
説明を受けたあと・・光背のない観音像を一周し拝観
檜材の一木彫(像高194cm)、右足の踵を少し上げ身体を左にひねっている
(この写真は、購入した写真と絵葉書のコピーです)
境内に「御尊像埋伏地の碑」が立っていた
住職巧円と住民たちが命がけで十一面観音など仏像を生めた場所という
高月町国宝維持保存協賛会の理事が毎日交替で維持管理に当たっている
最高傑作の十一面観音が、奈良・京都などの大寺院ではなく
奥琵琶湖の観音堂にあり、今も地元の人たちが守っている事は驚きである
<七体の内訳は、奈良3体・京都2体・大阪1体・滋賀(当寺)1体>
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石 道 寺
<十一面観音立像>
己高山麓にある真言宗豊山派の寺、元は三谷川沿いの山間にあり
平安から鎌倉時代にかけて己高山七大寺の一つとして栄えたが、そのご荒廃
明治29年に無住の寺となり、大正3年に本堂を現在地に移築した
石道寺も「無住の堂」・・詰所がある
紅葉の名所で知られる鶏足寺に近く、境内はモミジの新緑に覆われ美しい
右手の詰所には堂守の方が待機、観音堂に案内され説明を受けたが
山里のため後を継ぐ人を心配されていた、境内庭園の管理も担当すると謂う
<十一面観音立像 重要文化財>
唇には紅をひとすじ残し、極彩色の仏像であったことが窺える
流れるような衣を身にまとい、首を少し傾け穏やかで優しい姿をしている
(脇侍に、四天王の持国天・多聞天立像を安置、共に重要文化財)
井上靖の「星と祭」にも出てくると子授けの観音様として知られていると言う
(この写真は、ネットから拝借しました)
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鶏足寺・己高閣
<十一面観音立像>
己高山鶏足寺は、行基菩薩によって創建され、室町期には僧坊120宇を越え
湖北仏教の中核として隆盛を極めたが、地理的な悪条件から次第に衰退
現在では、礎石、石垣、参道などに往時の姿を留めるのみという
(山麓の与志濾神社地内に文化財収蔵庫「己高閣」を設け往時の仏像を保存)
<十一面観音立像 重要文化財>
伝教大師最澄が、薄雪の跡に残る鳥の足跡を辿って行った先の池に
観音の御首を見つけたという伝説の観音像、異国的な風貌をしている
分かり難いが下の資料(青い丸)です、 詰所の方が案内してくれる
己高閣収蔵庫の奥に、戸岩寺の仏像を収蔵した世代閣が有るが
ここでも、薬師如来立像、十二神将(三躯)など多くの仏像が収蔵されていた
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お ま け
もう一度・・・渡源寺観音堂の十一面観音菩薩像
頭頂分に乗る小面は、前面(慈悲相)、左三面(瞋怒相)、右三面(狗牙上出相)
後一面(暴悪大笑相)、頂上(如来相)、十一面観音像の前後左右から拝観
妻の姉妹たちから、観音の里の案内を喜ばれ
添乗員として面目を施すと共に、今回の旅を無事に締めくくる事ができた
観音の里、奥琵琶湖の紅葉(鶏足寺)とあわせて、もう一度行きたい所である
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この記事を作るに当たり、長浜ガイド誌、写真などをコピーさせて頂いた
琵琶湖湖北の旅、終章までご覧頂き有難うございました
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琵琶湖 湖北路の旅(7)<北国街道木之本宿②> [近畿地区]
琵琶湖 湖北路の旅(7)
<北国街道 木之本宿(2)>
数年前、何かの資料を見て訪ねてみたかったのは北国街道の木之本宿
添乗員の役目から一時解放され、宿場町の一人歩きを楽しんだが
江戸・明治を偲ぶ庄屋や商家は有るものの、旅籠らしい建物が分からず
限られた時間での急ぎ散策、略満足であるが目的を果たす事はできた
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<旅行日:5月9日>
木之本宿散策
<木之本宿北側>
木之本宿は地蔵院を中心に南北約1kmの北国街道沿いの宿場町
江戸の風情を留める木之本宿を北から南へ散策した
北国街道の石柱が立つ
<山路酒造(左)>
今も、清酒、桑酒を醸造する、創業480年の老舗酒造店
清酒を土産に買いたかったが散策の途中で諦めた
<木之本 牛馬市跡>
室町時代から昭和初期まで、毎年2回牛馬のセリがここで開かれた
山内一豊が、妻の蓄えた金子で名馬を買い求めた逸話は、この牛馬市である
<元庄屋 上坂邸>
白塀土蔵風の2階には、うだつが設けられ庄屋の威厳を保っている
<木之本宿 中央付近>
木之本地蔵院の門前から、木之本宿の北側を撮影
<本陣薬局>
旧本陣で、当主は日本で第1号の薬剤師という
古い看板の中には、ばい毒などの薬のほかに浅田飴もある
<きのもと交遊館>
宿場町に建つ洋風の建造物「旧滋賀銀行」(前回の記事でも紹介)
木之本宿が清酒、醤油の醸造などの産業や商業で栄えたことが伺える
<木之本宿の家並み>
道路中央の帯状の箇所は、小川を埋めた跡と思われる
小川に沿いの並木も伐採、交通量が増え街道の風情を失っている
<杉玉(酒林)>
酒屋の軒先に出された杉玉、新酒が出来ると新しい緑の杉玉に取り替える
昔は、運搬時の防腐剤として酒樽に入れたとも伝えられている
<か め や>
店先には「てづくりのみせ」の暖簾、元は煙草屋であったようだ
<醤油店 白木屋>
道の両側に醤油づくりの店が三軒(岩根醤油点、ダイコウ醤油店)
木之本宿は、田上山の良質な地下水で、酒・醤油づくりが盛んになったという
<岩根醤油店>
この店では、醤油を宅急便で積み出していた
<北国街道と北国脇往還の分岐点>
木之本宿から名古屋・江戸方面へ向かう旅人が、中仙道の鳥居本宿を経ず
関が原、大垣へ向かう近道の「脇往還」、右は伊勢道「北国街道」
この看板の背後(格子戸)には、各政党の選挙ポスターが貼ってある
ポスターを避け撮影したが、これは願い下げにして貰いたい
<脇往還との交差点>
車の往来が多い北国街道の木之本宿、少し寂れた感じが拭えない
中央に小川を再現させ柳などを植樹、風情のある町づくりが再生の道と思うが?
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奥琵琶湖景観
<湖面の松林>
湖面に浮かぶ松林、その奥に見えるのは竹生島です
渇水期になると少し島が見えるそうだが、年間を通してほぼこの景色
車の中から移動中に撮影
二つの写真は3日目の朝9時前の撮影、記事を纏める都合でここの掲載した
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次回は、琵琶湖湖北の旅(終章)<観音の里高月>を紹介します
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