東京坂道散歩<三分坂~乃木坂> [東京の坂道]
東京坂道散歩(3)
<三分坂~乃木坂>
今回歩いた、赤坂5丁目から9丁目の一帯を「江戸切絵図」で見ると
大名屋敷の間に、下級役人のような屋敷、寺院、民家などが密集している
今は道幅も拡張されたであろうが、随所に江戸の町筋が残っているように思える
この記事のメインの坂道は「三分坂」、さすがに江戸の地図に載っていた
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三 分 坂
<坂上から>
薬研坂(前記事)から直進すると、赤坂で一番の急坂「三分坂」がある
坂の名の由来は「急坂のため車賃を銀三分(さんぶん 百円余)増したためという
さんぶでは四分の三両になるので誤り」と門前に記載、車賃とは荷物運びのこと
<三分坂の中間>
坂の向う側は報土寺の練塀、急坂であることが分かる
<報 土 寺>
真宗大谷派の寺院、安永9年(1789)に赤坂一ツ木からこの地に移転した
寺内には、江戸時代の大関・雷電為右衛門の墓がある(大関は当時の最高位)
築地塀(練塀)は移転当時のもので、港区の文化財に指定されている
練塀とは、瓦を横に並べて練り込み泥土を撞き固めた土塀、築地塀ともいう
坂に沿って弓なりの形をした練塀で、塀の横には手摺りが設けられている
<坂下から>
坂の上に見える建物は赤坂TBSホール、車の往来が多い坂道です
大雪の日(1月24日)、この坂で立ち往生をしている車が放映されていた
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稲荷坂&新坂
<稲 荷 坂>
坂の下の北側に円融院があり、その境内の稲荷へ向かう門があったのが由来
坂上には、江戸城中清掃役の町があり掃除坂とも呼ばれていた
稲荷坂の坂上から
段々になったブロック塀(左の住宅)を見ても、急坂である事が分かる
<新 坂>
元禄12年(1699)にできた坂、当時は新しい坂で有ったようだ
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名なし坂
<坂下から>
住宅地を通り抜け御苑東通りに上がる坂、この辺りは細い坂が多い
右側の建物は「カンボジア大使館」の正門です
この坂に名が無いのは・・・
大名屋敷などの跡地を開発し、新しく造った道だからであろうか?
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乃 木 坂
<旧乃木邸>
外苑東通りを六本木交差点に向かって歩くと旧乃木邸の門前に着く
乃木将軍夫妻は、明治天皇大葬の日に奥に見える建物の一室で殉死をした
乃木神社は、この建物の後ろ側にあり乃木坂に面している
<乃 木 坂>
乃木坂は、前方の御苑東通り(陸橋)の上で接する坂道で有ったが
今はトンネルになり御苑東通りの下を通っている、右側は乃木神社です
この日の歩数は、15,264歩でした(自宅に変えるまで)
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次回は、真冬に春を求めて<多摩動物園(1)>を紹介します
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東京坂道散歩<豊川稲荷~円通寺坂> [東京の坂道]
東京坂道散歩(2)
<豊川稲荷~円通寺坂>
坂道を歩いていると、神社仏閣や地元の名所に出会うのも楽しみの一つ
青山通りに面した豊川稲荷は、弾正坂(前記事)と九郎九坂に挟まれた場所
久しぶりに立ち寄ったが、大岡越前守ゆかりの寺院と知り認識を改めた
参拝の後は、赤坂でも細い坂が集まる中心地、薬研坂から再び歩き始めた
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豊川稲荷 東京別院
<山 門>
豊川稲荷妙厳寺(愛知県豊川市)の唯一の直轄別院、曹洞宗の寺院
大岡越前守が豊川稲荷の吒枳尼真天を勧請して自邸に祀ったのが由来と言う
「吒枳尼真天(だきにしんてん)」は 白狐にのる天女(インドの神)である
<本 堂>
大岡越前守は、毎月午の日と22日に自邸の門を開け一般庶民に開放していた
後に妙厳寺が大岡邸の一部を借り受け江戸参詣所を建立したのが始まりという
越前守は南町奉行から大名に昇進、立身出生・盗難避けで信仰されていた
<三 神 殿>
中央に商売繁盛の宇賀神王、左右に対人関係と健康を守る稲荷を祀る
参道には、白狐の石像が所狭しと並んでいる
<融通稲荷尊天>
財宝を生む南無如意宝生尊天、熱心に信心すると金銀財宝の融通が叶うという
この女性は長い間お参りをしていた、願いが叶うといいですね
<大黒尊天>
災難を除き福を招く大黒天、境内の七福神の中で唯一堂内に納まっている
恵比寿尊、毘沙門天なども撮影したが写真の数が多いので割愛
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豊川稲荷
<九郎九坂>
豊川稲荷から西に下る坂、坂の下は前記事で紹介した弾正坂です
<青山通り>
赤坂見附に向かって下り坂になっているが坂の名はない
東京オリンピックの開催に合せて道路を拡張、豊川稲荷の境内も狭くなった
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薬 研 坂
<薬研坂へ>
青山通りから赤坂TBS方面に向かう坂道、小さな建物が並ぶ細い道であったが
都市開発により、高層ビルやマンションが完成し景観が一変している
<北側の坂上から>
薬研とは薬を挽き粉末にする道具、時代劇で医者が使うのを見かける
この坂は青山通りから一旦下り、再び上がることから薬研坂の名が付いた
<坂の下から>
前方は青山通り、樹木が茂る所は赤坂御用地です
江戸切絵図を見ると、この坂の両側(坂の上)は石段になっていたようだ
<南側の坂上から>
この角度から見ると、薬研坂の由来が納得できる坂道です
坂を上下する傾斜、カーブの形状、周囲の景観など、名坂の一つと言える
<名無し坂>
薬研坂の坂上(東側)から、赤坂見附方面に一挙に下る急坂
左はパークコート赤坂(高層マンション)、坂下には古い民家や商店が残っている
<円通寺坂>
薬研坂から、次回に紹介する三分坂の方向に歩くとこの看板が立っている
<円 通 寺>
坂上に円通寺があるのが名の由来、この坂を下ると赤坂見附
坂下の外堀通りを渡ると、毎年初詣に行っている山王日枝神社がある
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次回は、東京坂道散歩(3)<三分坂~乃木坂>を紹介します
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東京坂道散歩<四ツ谷~元赤坂> [東京の坂道]
東京坂道散歩(1)
<四ツ谷~元赤坂>
毎月一度訪れる麹町の診療所、坂道散歩をブログのテーマにしているので
坂の街・赤坂が近いのは有りがたい、前に歩いたことがある坂道だが
歩く順路を少し変えると、この目で見る眺めも異なり新鮮に感じる
今回のリベンジ散歩、四ッ谷駅を出発し乃木坂を終着点にして歩き始めた
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四ッ谷駅・外堀通り
<四ッ谷駅>
同じ四ッ谷駅でも、何時もはJR四谷見附口から歩き始めるが
今回は、JRと東京メトロの改札口が隣り合わせの赤坂口から出発です
JR四ッ谷駅の改札に近い通路から、駅のホームを撮影
<外堀通り>
四ッ谷駅を出ると外堀通り、迎賓館辺りまでは「ゆりの木」の街路樹が多い
三宅坂の街路樹もそうだが、皇居周辺ではこの木をよく見かける
(左):生長量を調査しているようだ (右):花が散った後も形を止めている
<迎 賓 館>
前回の坂道散歩(昨年12月)で迎賓館を撮影しているので、今回はスルー
この場所から、外堀通りを渡り赤坂見附の方向(左)に歩く
ベルサイユ宮殿を模した迎賓館
鉄柵の左側(紀伊国坂)に一歩入ると・・・その景観は一変する(次の写真)
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紀伊国坂
<坂上から>
この坂の名は、紀州徳川家の広大な上屋敷あったことに由来する
迎賓館の鉄柵と対照的な土塀が、坂の下まで続いている(上の写真と対比)
<迎賓館東門>
迎賓館の東側には、紀州徳川家上屋敷の正門が保存されている
<坂の中間から>
この坂は外堀通り、坂下の赤坂見附で青山通りと交差する
<坂の下から>
港区赤坂一帯には坂道が多いが、赤坂と呼ぶ坂は見当たらない
赤根山(紀州家付近)に登る坂であったのが、赤坂の地名になったようだ
竹橋から皇居乾門に上がる坂道も、同名の紀伊国坂である
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赤坂御用地
<弾正坂へ>
紀伊国坂の坂下(上の写真の左手)から西側に入る道
この辺りまで下ると、迎賓館とは地続きの赤坂御用地になる
<赤坂御用地・鉄柵>
赤坂御用地に沿って青山通りまで、この鉄柵が続いている
鉄柵には港区の花を3種類あしらっていた、この図柄はバラの花
(左):アジサイ (右):ハナミズキ
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弾 正 坂
<坂の中(1)>
この坂の西側に吉井藩松平家の屋敷があり、代々弾正大弼に任じられる事が
多かったため名づけられた、弾正大弼とは官位従四位下の高官
<坂の中間(2)>
坂の上を撮影、赤坂御用地の外側には上の写真の鉄柵が見える
<青山通りから>
弾正坂は青山通りで分断されたが、先まで続いていた
左側は赤坂御用地の東門、右には豊川稲荷東京別院がある
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次回は、東京坂道散歩(2)<豊川稲荷~円通寺坂>を紹介します
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東京坂道散歩<四谷見附~三宅坂~赤坂見附> [東京の坂道]
東京坂道散歩
<四谷見附~三宅坂~赤坂見附>
毎月通っている麹町の診療所、この日はやや寒いが歩けば体も温まる
それではと、四ツ谷駅から紀尾井坂、清水谷坂などを歩き目的地へ向かったが
所要を済ませた後も更にコースを延長し、半蔵門から内堀通りを経て赤坂見附へ
四谷・麹町・三宅坂・平河町・赤坂をぐるっと一周する、師走の散歩になった
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散歩記事の納め
<迎 賓 館>
ベルサイユ宮殿を模したネオ・バロック様式の建造物
坂道散歩に向かう前に寄り道、左側の紀伊国坂を下ると赤坂見附は近い
<JR&東京メトロ・四ッ谷駅>
四谷見附から赤坂見附に向かう外堀通りに、二つの駅の赤坂口がある
背後は上智大学の建物、教会の鐘が正午を告げていた
<四谷見付橋>
新宿通りから見た半蔵門方向、今回の坂道散歩は四谷見附橋からスタート
左側のかまぼこ型の建物はJR四ッ谷駅、右側は上智大学です
<四谷外堀公園>
江戸城総構え跡の土手道、春は桜の名所になる
四谷見附橋を渡り、上智大学のキャンパスを左に見て紀尾井坂に向かう
<紀尾井坂>
江戸時代、紀伊家、尾張家、井伊家の屋敷が有りこの名がついた
外堀公園の土手から清水谷に下る坂道、右側はホテルニューオータニ
清水谷から見た紀尾井坂
<清水谷坂>
紀尾井坂、清水谷坂の坂下で交差し、南北に通る道筋が清水谷
左の写真の横断歩道が清水谷、その奥が紀尾井坂です
<参議院議員会館>
清水谷坂の途中に、立派な議員会館があった
<平河天満宮>
大田道灌が江戸城本丸内の梅林坂に勧請したのが始まりと言われ
徳川家康が入城後、慶長11年(1606)にこの地に遷座、左側に中坂がある
<麹町1丁目交差点>
新宿通りの東端、正面は半蔵門、八重洲通りから新宿御苑までは風の道
皇居の先に見える高層ビルは、新丸ビル(左)と丸ビル(右)です
<桜 田 濠>
半蔵門から桜田門まで続く桜田濠、三宅坂(内堀通り)を下る
石垣が多い江戸城の中でも、土手で造られた桜田濠の景観は優美で美しい
<ユリノキ>
三宅坂に沿ってユリノキの並木が続いている
5月末ころには、チューリップに似た花が咲くと聞くがまだ見ていない
<三 宅 坂>
半蔵門から警視庁まで続く坂道、三宅備前守の上屋敷が有ったのが名の由来
幕末の大老井伊直弼は、この坂で水戸浪士などの襲撃を受け落命した
<富士見坂①>
三宅坂の中間(最高裁判所の左)から、赤坂見附に下る坂道
富士見坂の左は立法府が集まる永田町、参議院議員会館の奥は国会議事堂
<富士見坂②>
坂の下は赤坂見附、外堀通りと青山通り(立体)が交差する
この坂から富士見山が見えたのであろう、今は首都高4号線が上を走っている
<赤坂見附跡>
四谷見附、市谷見附などと共に、江戸城外郭にあった三十六見附のひとつ
現在では赤坂見附門の石垣が、当時の遺構として残るのみである
<赤坂見附交差点>
富士見坂を青山通り(立体道)の下から撮影、右の建物は赤坂東急ホテル
この記事の途中で紹介した清水谷は、立体道の左側にある
上の写真の後側は・・紀伊国坂
紀州徳川家の上屋敷(現赤坂御用地)があったのが紀伊国坂の名の由来
赤坂周辺に坂道は多いが赤坂の名は見当たらない、紀伊国坂が起源のようだ
今回は歩いていないので来年の宿題とし、今年の散歩記事を終えます
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次回は、2012年ブログ納め<新井薬師参拝>を紹介します
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東京坂道散歩(4)<大使館と坂の街・麻布> [東京の坂道]
東京坂道散歩(4)
<大使館と坂の街・麻布>
麻布十番商店街から南西の方向に少し入ると、そこは閑静な住宅街
そして、麻布にはドイツ、フランス、スイスなど各国の大使館が19カ国も集中し
多くの外国人が生活する国際色豊かな街、その様子を綴った3年前の記事が
麻布外人村です⇒ http://koh925.blog.so-net.ne.jp/2009-11-07-1#favorite
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仙 台 坂
<坂下から>
坂の南側一帯が仙台藩伊達家の下屋敷があったのでこの名が付いた
この標識の右側は、前記事で紹介した善福寺、左には韓国大使館が有る
<坂上から>
この坂の後方には有栖川記念公園、そして南部坂を挟んでドイツ大使館がある
ブログを初めたころ・・ベルリンの壁「崩壊20周年記念写真展」をアップした
ご覧ください ⇒ http://koh925.blog.so-net.ne.jp/2009-11-10-1#favorite
上の写真では勾配が分かり難いが
標識の少し先から見ると、このような長い坂が真っすぐ続いている
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仙台坂~一本松坂へ
<安藤記念教会>
仙台坂上で右に曲り一本松坂の方向に歩くと、この教会があった
青々とした蔦が美しいので思わず撮影、右は教会のステンドグラスです
青いトンガリ帽子は付属幼稚園の建物のようだが、今は夏休み
<アルゼンチン大使館>
安藤記念公園の右隣りはアルゼンチン大使館、下には総領事館の表記もあった
どの国もそうだが、セキュリティー対策がしっかり採られている
<氷川神社>
アルゼンチン大使館の向かい側にあった神社・・参拝をする
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一本松坂
源経基(清和源氏の祖)が平将門を攻略した帰路、この松に衣裳を掛けたという
「羽衣松」伝説が残る由緒のある一本松、今は五代目だという
この一本松(右側)が、坂の中腹にあるためこの名が付けられた
標識と一本松を一緒に撮りたかったが、電話ボックスと看板に遮られる
確か、「ブラタモリ」で放映していたように思うが?
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暗 闇 坂
<坂上から>
東京23区の坂道には、幽霊坂と共に暗闇坂と呼ぶ坂道が数か所ある
調べると、樹木に覆われ昼間も暗かったので、この名が付いたようだ
<坂の中腹から>
左に大きく曲りながら上がって行く急勾配の坂、そして両側の佇まい
東京の坂道では一級の美しい坂、左の建物は「オーストリア大使館」です
麻布十番商店街から僅か100mほど入ると、街の景観が一変する
上の写真の場所から、少し下がって撮影
煉瓦造りのオーストリア大使館に、右側の石垣がマッチしている
<坂下から>
この場所から少し下がったところが、麻布十番商店街です
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再び 麻布十番
商店街の通りから、西の方向を見ると六本木ヒルズが目前にあった
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暗闇坂の坂上から西に向かえば、「狸坂」「狐坂」が有るが無理をせず次の機会に
その先には、中国、ルーマニア、ウクライナ、ギリシャなどの大使館が有る
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次回は、草津温泉~軽井沢の旅を紹介します
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東京坂道散歩(3)<麻布台の古刹> [東京の坂道]
東京坂道散歩(3)
<麻布台の古刹>
坂道散歩に出発する前、何時ものようにコース中の名所旧跡を調べていると
見逃せない寺院が見つかった、そこは東京では浅草寺の次ぐ古刹の善福寺
弘法大師が真言宗を広めるため、天長元年(824年)に開山した寺院
その後浄土真宗に改宗したが、東京に由緒がある古刹が有るのを初めて知った
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麻布山善福寺
<勅 使 門>
鎌倉時代、越後国に流されていた親鸞聖人が許されて京へ上る途中に訪れ
その時に迎えた了海上人は、一山をあげて真言宗から浄土真宗に改宗した
善福寺の周辺には、末寺と思える光善寺、善光寺、善通寺など7寺が有った
<勅使門から境内>
麻布の地名の由来は、善福寺の山号「麻布山」から採ったという説がある
また、虎の門の地名は善福寺の山門が有った場所、そして杉並区の善福寺池は
この寺の奥の院跡(飛び地)であった言う、当時の寺領の広さが伺える
<本 堂>
浄土真宗本願寺派の寺院、本尊は阿弥陀如来
慶長12年(1607)東本願寺八尾別院の本堂として建立、京都天明の大火の後
東本願寺御影堂の役を約10年勤めた建物を移築した由緒ある本堂という
<境 内>
勅使門から境内に入ると、右側にイチョウの大木が有った
その下にある石碑(矢印)は、次の写真の通りです
<ハリスの記念碑>
安政5年(1859)、日米修好通商条約に基づき、初代アメリカ合衆国公使館が
善福寺内に設けられ、タウンゼント・ハリス公使以下の館員が駐在した
太平洋戦争中、ハリスの記念碑は菰(こも)をかけ地中に埋められていたが
昭和35年(1960)、日米修好通商百年を記念してこの地に再建された
<逆さイチョウ>
親鸞聖人がみずから植えたとされる古木で、国の天然記念物に指定されている
伝承によると、親鸞聖人が地に差した杖から成長したという
戦災により、かなり損傷を受けたと聞くが、今も往時の偉観が留めている
公孫樹とは、孫の代になって実がなるというイチョウの別名です
樹齢750年以上、幹の周囲10.4m、東京最大のイチョウの巨樹である
上下の写真で分かるように、根がせり上がり枝先が下に伸びていることから
「逆さイチョウ」・・と言われるようになった
<鐘 楼>
イチョウを撮影していると鐘が続けて鳴りだした、振り向いて見ると無人
自動で正午の時報を告げていた、奥に見えるのは本堂、矢印は次の写真です
<越路吹雪の碑>
宝塚のトップスターを経て、昭和を代表する名歌手になった越路吹雪さん
墓所は川崎市にあるそうだが、この歌碑が何故ここの有るのかは?
<元麻布ヒルズ>
麻布の高台に建つ高層マンション、私にはまったく縁のない億ション
辺りの寺院や街を見下ろすように建っている、下には善福寺の墓地が見える
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散歩をしていると思いがけない発見がある、これからも歩き続けたい
次回は、東京坂道散歩(4)「坂と大使館の街・麻布」を紹介します
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東京坂道散歩(2)<麻布十番の坂> [東京の坂道]
東京坂道散歩(2)
<麻布十番の坂>
坂道散歩のはずが、何時もの脱線癖が出て前記事では「十番稲荷神社」を
そして、童謡「赤い靴」のモデルになった少女の像にも出会った
麻布十番の南西に位置する元麻布は、一帯が小高い丘陵で坂道も多い
この記事では、十番商店街の南側に並行する坂道を紹介します
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赤い靴の少女
<パティオ十番>
野口雨情の童謡「赤い靴」の女の子にはモデルがあった
異人さんの国に行き、幸せに暮らしていると誰もが思っていたであろうが
十番稲荷付近にあった孤児院で、9歳の時に寂しく亡くなっていたという
<少女の名は・・きみちゃん>
宣教師に預けられた事情や、その後の詳細は・・・下を(⇓)ご覧ください
http://www.azabujuban.or.jp/juban/kimicyan/akaikutsu.html
<これは、きみちゃんの像の下にあった説明文です(英文も併記)>
<きみちゃんの後ろ姿>
野口雨情がこの事を知っていたら、この童謡は生まれなかったであろう
しかし例え事実で有っても、「赤い靴の少女」はアメリカに渡ったと信じていたい
<きみちゃんの像が見つめている先は、次の大黒坂の方向です>
麻布には 19か国の大使館があり外国人の多い街
明治期にも、多くの外国人が麻布に居住していたことが伺える
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大 黒 坂
<坂下から>
坂の中腹の北側に大黒天を祀る日蓮宗大法寺があり、この名称が付いた
大国坂とも言い、港七福神の一つになっているが写真は撮らず
<坂上から>
この標識の後ろは「一本松坂」、左側には「暗闇坂」があるが
記事をまとめる関係で、二つの坂道は次々回の記事で紹介します
<大黒坂の標識>
白の矢印で示す標識は、次に紹介する七面坂です
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七 面 坂
<坂上から>
港区が設置した標識には、坂の東側にあった本善寺(戦後五反田に移転)に
七面大明神の木像が安置されていたので、この名称が付いた
スーツを抱え急坂を登って来た人にすれ違ったが、汗だくであった
<坂下から>
この写真では、急坂には見えないが上の写真を見ればよく分かる
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名なし坂
<模様が美しい急坂>
大黒坂の坂下付近の南側に、この坂道があった
この坂は曹洞宗の寺院「賢索寺」の参道、名はないが立派な坂道です
美しい石畳の模様に誘われて上ってみた
境内の東側にはマンションが建ち、石段はこの坂を利用する人の為のようだ
<興国山賢索寺>
禅宗らしい入母屋造りの落ち着いた佇まいの寺院
肥前佐賀藩主、鍋島勝茂が嗣子忠直の死を悼み創建した寺院
寺名は、忠直の戒名「興国院殿敬英賢索大居士」から名づけられた
<大乗妙典一千部塔>
由緒が有りそうな大乗妙典塔、賢索寺にはHPなどがなく委細不明
塔の背後には、鍋島藩主一族の五輪塔があるが中に入ることはできない
<六本木ヒルズ>
賢索寺は麻布の高台に建てられているため眺望が良い
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妻のこと
妻の診断(8月4日)結果、術後の経過も順調で以後の通院は不要と判断された
5月23日の手術から約70日、ようやく健康を取り戻すことができた
<次回は、東京坂道散歩(3)「麻布台の古刹」を紹介します>
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東京坂道散歩(1)<麻布十番を散策> [東京の坂道]
東京坂道散歩(1)
<麻布十番 散策>
麻布十番へは時々行っていたが、周辺の坂道を歩いた事はない
都心へ所用で外出した日の朝、少しでも気温の低い時間帯を狙い坂道散歩へ
事前に調べ初めて知ったが、坂道の他にも古寺など見どころが多い
東京メトロの駅から商店街を散策し、そして目指す坂道、古寺などに向かった
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商店街を歩く
<一 ノ 橋>
麻布十番商店街へ行く前に、少し寄り道をして古川に架かる一の橋へ
源流の一つは新宿御苑、渋谷駅付近では暗渠を通り渋谷川を経て古川に至る
<桜田通り>
一の橋から直進すると桜田通り、信号を渡った正面が麻布十番商店街です
左に行くと高輪を経て五反田へ、右に向かうと溜池から皇居桜田門
<地下鉄 麻布十番駅>
東京メトロ南北線の麻布十番駅が、今回の散歩のスタート地点
東京メトロのはかに、都営地下鉄大江戸線駅もできアクセスがよくなった
<麻布十番の通り>
この通りを10分ほど歩くと六本木ヒルズ、この辺りには高層マンションも増え
スマートな通りに思えるが、並んでいる商店には下町風情が残る店も多い
<麻布十番の商店(1)>
手前の店は、今川焼、いなりずし、のり巻などを扱っている「月島家」
八百屋、荒物屋、雑貨屋、魚屋などもあり、市場のような通りである
<麻布拾番の商店(2)>
浪花屋(行列のできる・たい焼屋)、豆源本店(豆類を扱う店)
<上島珈琲店>
妻は冷やした麦茶(水筒)を持たせてくれたが、先ずはこの店でコーヒータイム
この日の予想気温は33℃、こまめに水分補給をしながら歩く
<環状3号線(319号)>
商店街の一本東側の道、地下鉄工事、六本木ヒルズ建設で広くなったようだ
外人さんに連れられた幼い子供たち、私も一緒に信号を渡り 行った所は ⇓
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十番稲荷神社
幼い子供たち(上の写真)と一緒に道路を渡ると、正面にこの神社がある
道路拡張で狭くなったのか、石の鳥居も階段もまだ新しい
往年の喜劇役者榎本健一(エノケン)が寄贈した鳥居があったが今はない
<扁 額>
主祭神、倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)
戦災に遭い焼失した、末広神社、竹長稲荷神社の両神社が合併し
十番稲荷神社と改称、現在地に新しく社殿を建て替えたという
<港七福神 (寶船)>
長寿と福徳をもたらすという七福神、ここでは八ツの神社を巡る
全国でも珍しい宝船の授与所が、十番稲荷神社にあるのがその理由
<麻布七不思議 (がま池)>
麻布一帯が大火に遭った時、旗本屋敷の池にいた大蟇が口から水を吹き
類焼を防いだという、その故事に因み「かえる」のお守りを販売している
<ブラタモリ>
今はマンションの裏庭に「がま池」が残っているそうだが、入ることは出来ない
この説明パネルを見て、「ブラタモリ」で紹介していたのを思い出した
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次回は、東京坂道散歩(2)「麻布十番の坂道」を紹介します
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東京坂道散歩<文人たちの町・本郷②> [東京の坂道]
東京坂道散歩
<文人たちの町・本郷(2)>
東京メトロ後楽園駅から歩きはじめ、本郷台地の坂の上り下りを繰り返し
目的地の不忍池まで歩いた歩数は18800歩(自宅往復を含む)
夏風邪は完治していなかったが、気温が低い日でゆっくり時間をかけたので
歩きたいと願っていた無縁坂も下り、最後まで歩き通すことができた
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本郷の坂を歩く
<鐙(あぶみ)坂>
菊坂下の谷地から本郷台地に上がる坂、鐙に似ているので名が付いた言う
車も通れない細い坂だが、今回の本郷の散歩で最も風情を感じた坂道
前の道を左に行くと、前記事で紹介をした銭湯の「菊坂湯」がある
<金田一京助・春彦 旧居跡>
右の木造家屋は、言語学者の金田一京助が住んだ旧居跡
長男の春彦氏はここで誕生し、近くの真砂小学校(現本郷小学校)に通学した
<台地から見た谷地>
鎧坂の坂上から団子坂に通り抜ける台地の上の道
前記事に書いた、樋口一葉が住んだ借家は、この下の谷地のなかにある
<団 子 坂>
上の写真の台地を通り抜けると、左の青い手すりの道に出て来る
右は、谷地に下る急な石段の 「団子坂」、階段や手すりのない時代
雨が降った後、この坂で転ぶと炭団のように真黒になったのが坂名の由来
<坪内逍遥 旧居跡>
上の写真の左に、坪内逍遥が明治17年から3年間住んでいた
この地で、「小説神髄」や「当世書生気質」を発表したと記されている
<旧真砂町 案内>
真砂町と言えば、泉鏡花の「婦系図」、”真砂町の先生”を真っ先に思い出す
また、富田常雄の「姿三四郎」で、三四郎と源三郎が決闘をした右京ケ原は
この地の事で、高崎藩主松平右京亮の屋敷跡の原っぱであったと言う
<宮沢賢治 旧居跡>
大正10年、僅か8ヶ月だが菊坂下の住宅(右)に間借りをし童話集を執筆
妹の病気で花巻に帰ったが、トランクにはいっぱいの原稿が入っていたという
<梨 木 坂>
菊坂の中間付近から北に上がる細い坂道、宮沢賢治の住んだ坂にも近い
何の取り柄もない坂のようだが、カーブする角度は良い
<本妙寺坂>
明暦3年の大火、振袖火事の火元とされている本妙寺がこの地に有った
現在の本妙寺は豊島区巣鴨に移っているが、坂の名は残っている
遠山の金さんこと北町奉行「遠山金四郎」、幕末の剣豪千葉周作の墓がある
本妙寺坂を上がり、少し先を右に折れるとと東大の赤門が有る
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東大を通り抜け
<赤 門>
加賀百万石、前田家の上屋敷の御守殿門で、将軍徳川家斉の息女溶姫を
正室に迎える際に、14代藩主前田斉泰が建造した往時の原型を残す門
重要文化財の指定を受けている朱塗りの門は、赤門と呼び親しまれている
<安田講堂>
正式名称は東京大学大講堂、登録有形文化財の指定を受けている
左翼系学生が安田講堂に立てこもり、攻防戦を繰り広げた事件を思い出す
菅直人首相も、大学は違うとはいえ左翼系学生としてデモに参加していた
<三四郎池>
正式名称は育徳園心字池、台地の浸食でできた池に湧水が流れ込んでいた
夏目漱石の小説「三四郎」にちなみ、三四郎池と呼ばれている
学内にいた学生(3人)に、無縁坂に行く近道を訪ねたが誰も知らない
無縁坂そのものも知らないのには驚いた、見当をつけ鉄門に向かう
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無縁坂~岩崎庭園
<無 縁 坂>
東大医学部に近い鉄門を抜けると、そこから無縁坂が始まる
右の石垣塀の内側には、旧岩崎邸庭園がある
<無縁坂・・・二つの作品>
① 島崎藤村の作品 『雁』で・・・主人公の青年が毎日上野まで散歩をした坂
② 「さだまさし」の名曲・・・母がま だ若いころ ぼくの手を引いて この坂を~http://www.youtube.com/watch?v=hKHL_A5kRHM
しみじみとした歌です、妻はこの曲を聞くと亡き母の面影が浮かぶと言う
坂の下から上の方向を・・・
<講安寺の境内から>
坂の途中にある講安寺、元は無縁寺を呼ばれていたのが坂の名の由来
本堂は漆喰で塗り込められた土蔵造り、江戸期の火事に対する知恵だと言う
歩道の街路樹の下には、こんな案内板があった
<旧岩崎邸庭園>
一度は訪れたと思いながら、いまだ実現していない岩崎庭園
この日は、時間も4時を過ぎ疲れもあったので次の機会に延期した
<岩崎家ゆかりの都立庭園>
三菱財閥の創始者 岩崎弥太郎たちが、豊富な資金力で買い取った庭園
今は、東京都の庭園として都民に親しまれている
岩崎邸庭園から不忍通りを渡り、目的地の不忍池に着く
JR御茶ノ水駅までタクシーで移動し帰路についた
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次回は、アメリカ西部旅行(最終章)・・「ルート66」を紹介します
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東京坂道散歩<文人たちの町・本郷①> [東京の坂道]
東京坂道散歩
<文人たちの町・本郷(1)>
8月に入っても、戻り梅雨を思わせる気温が低い日が続く東京
この日は曇り空で気温も28℃、東京の街中を散歩するには支障がなさそう
東北六魂祭、山寺から帰った翌日から夏風邪を引き家に閉じこもって約2週間
ようやく元気が戻ってきたので、一人で本郷台地の坂道を歩く事にした
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東京メトロ後楽園駅
<本郷台地の坂道・・出発地>
地下鉄が地上を走る本郷台地の一角、坂道が多い事がうなずける
メロンパンのような東京ドーム、その背後には東京ドームホテルが見える
この道を北に進むと「こんにゃくえんま堂」、2度目だがチョット寄り道
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こんにゃくえんま堂
寺名は常光山源覚寺・・・片目の閻魔大王が祀られている
<えんま堂①>
日本昔話にも有るが、信心深いおばあさんに閻魔大王が自らの片目をあげた
目が見えるようになった、おばあさんは、毎日蒟蒻を供えお参りをしたと言う
私は、網膜出血を患い目が見えにくいので、お参りに立ち寄った
<えんま堂②>
本堂の隙間から閻魔大王を覗くと、左の目が光り、右目が濁っている
水晶玉は閻魔様の目玉であろうか、本堂の前には蒟蒻が供えられていた
<えんま堂③>
左目が光る閻魔大王の絵馬、「め」の字が書かれた賽銭箱
霊験が新たかでありますようにとお参りをした
<塩地蔵尊>
地蔵尊の身体に清めの塩を盛ってお参りすると、願いが叶うと伝えられている
源覚寺が開基する前から、この地に有ったと記されていた
<汎太平洋の鐘>
8月15日の正午から、平和を祈念して打鐘の集いが行われる
説明では、昭和12年源覚寺からにサイパン島の南洋寺に転出していたが
戦後行方不明になっていた、その後テキサスで発見され日本に戻された
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本郷の坂道
<新 坂 ①>
こんにゃく閻魔堂の前から白山通りを渡り、更に東の方向に歩くと
菊坂の少し先に新坂がある、ここから本郷の坂道に入る
<新 坂 ②>
坂の上から下を見ると道路を走る白い車が見える、かなりの急坂です
右の建物は、石川啄木ゆかりの蓋平館別荘(現太栄館)
金田一京助の世話で、石川啄木が一時移り住んでいた高等下宿
<啄木ゆかりの旅館>
石川啄木が、小説の売り込みに失敗し苦悩の句を詠んだ場所でも有る
この辺りには、尾崎紅葉、二葉亭四迷、徳田秋声など文人が住んでいた
そのため、この坂は文人逍遥の道とも呼ばれている
<胸突坂①>
ここにも旅館(鳳明館)がある、門前を進むとその先が胸突坂
胸を突くような急坂であるので、この名が付いたようだ
この辺りには和風旅館が数軒あり、修学旅行など高校生の宿になっている
<胸突坂②>
鳳明館の駐車場が左にあるが、坂と見比べると急坂が分かる
坂を上がって来る男性は右の家の人、毎日大変でしょう
<胸突坂③>
この急な坂を下ると、その突きあたりは菊坂の坂下に出る
胸突坂は文京区に3か所ある、神田川から椿山荘の横を上る坂が有名
<菊 坂 ①>
江戸時代、下級武士が多く住み生活の糧に菊を栽培していたのが名の由来
この先を行くと、東京大学の正門、赤門が有る本郷通りに出る
<菊 坂 ②>
菊坂の中間辺りから、坂下の方向を撮影
右に見える木造の建物と土蔵は、樋口一葉ゆかりの質店伊勢屋
昭和57年に廃業したが、情緒のある家屋と土蔵が保存されている
<伊勢屋質店>
父亡きあと、母と妹と共にに移り住んだ樋口一葉が、足しげく通った質店
一葉の明治26年5月2日の日記・・・案内板より
此の月も伊せ屋がもとにはしらねば事たらず、小袖四つ、羽織二つ、一風呂敷に
包みて母君と我と持ちゆかんとす。 『蔵のうちにはるかけれ行ころもがへ』
<樋口一葉が住んだ町>
菊坂から下がった谷地にあり、今も細い通りには木造住宅が残っている
ここは、昭和初期の東京にタイムスリップしたような町でした
<樋口一葉が暮らした借家>
案内板がないので、どの場所が住んでいた家なのか分からない
車も入れない路地の奥には、時代を感じさせる2階建の木造住宅があった
<地元の人の案内で辿り着く>
(左):路地の入口、上の写真はこの路地の奥にある
(右):樋口一葉が使ったと伝えられている井戸、今も水が汲み上がる
<店先の用水>
お休み処は本日休業、下町らしい風情に惹かれた
<菊 坂 湯>
風呂がない家が多いのか、営業を続けている
菊坂下の谷地にあった銭湯、樋口一葉も通ったのであろうか?
次回、「文人たちの町・本郷②」に続きます
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アメリカ西部旅行記(ルート66)の予定でしたが、急遽割り込みました
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