東京坂道散歩(59)<四ツ谷駅~迎賓館> [東京の坂道]
東京坂道散歩(59)
<四ツ谷駅~迎賓館>
毎月一度、定期便のように通っている麹町の診療所、その行きか帰りのいずれかで
赤坂周辺、紀尾井坂から麹町、三宅坂から皇居方面などの坂道を巡っているが
今まで四谷の坂道を歩いたことがない、そこで今回の散歩コースに選んだのは
四ツ谷駅から四谷三丁目まで新宿通り南側一帯の坂道、歩いた順に記事を進めます
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「散歩日:10月3日」・・在庫記事の蔵出です!
<新宿通り>
麹町の診療所へ行くときは、四ツ谷駅から新宿通りを半蔵門方向へ歩くが
この日は四谷の坂道散歩、いつもと違い外堀通りを赤坂方面へ向かう
信号を渡りながら新宿方向を撮影
<外堀通り>
新宿通りの信号を渡り外堀通りを赤坂迎賓館の方向に向かう
JRと東京メトロ四ツ谷駅の駅前
上智大学と聖イグナチオ教会、私好みの撮影ポイントです
V字型三叉路
正面は赤坂迎賓館、左は赤坂見附(外堀通り)右は神宮外苑(鮫河橋坂)の方向
大きなV字型三叉路です、この一帯の樹木はほとんどがユリノキです
<赤坂迎賓館>
かつて紀州藩江戸屋敷の広大な敷地の一部に、明治42年(1909年)に東宮御所(後に赤坂離宮)として建設されたもので、当時日本一流の建築家や美術工芸家が総力を挙げて建設した、日本における唯一のネオ・バロック様式の洋風建築物である。
正面の門から撮影
学習院初等科前から振り返って撮影
学習院初等科
上の写真(迎賓館)と同じ場所で反対方向を撮影
<鮫河橋坂>
学習院初等科から坂下方向
坂下の区立みなみもと公園の一帯は、昔から低い土地でヨシなどが繁った沼地があり、周囲の土地から湧き出す水をたたえ、東南の方向へ流れて鮫河となり赤坂の溜池にそそいでいた。江戸時代になってから水田となり、寛永年間に行われた江戸城の外堀工事の際に余った土で埋め立てられて町になったと言われている。鮫河には橋が架かっていて鮫河橋と呼ばれていた。鮫河橋は「江戸名所図会」にも取り上げられています。 (以上説明文より)
鮫河橋坂の坂下
赤坂御用地 鮫が橋御門
鮫河橋坂と安鎮坂の坂下、鮫河は御門を通り赤坂溜池に流れていたと思われる
安 鎮 坂
付近にあった安鎮大権現の小社が名の由来と言うが、その小社は不詳です
赤坂御用地の鮫が御門から神宮外苑方向への登り坂
鮫河橋跡
坂名の由来になった鮫河橋の跡地、町民に信仰されたと言う祠がある
碑に刻まれた文字は、大願成就「鮫ヶ橋せきとめ神」
鮫河橋跡の祠の左隣
ここにも小さな祠、この一帯は新宿区立みなみもと公園です
初めて見たオレンジの花、珍しいので撮影した
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次回は、東京坂道散歩<四谷の坂巡り>を紹介します
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梅雨の晴れ間に<四谷・麹町散歩> [東京の坂道]
梅雨の晴れ間に
<四谷・麹町散歩>
大型台風8号が沖縄諸島で猛威を振るっていた7月8日、東京の都心は
梅雨明けを思わせる快晴で、気温は30度を越え千代田区は熱中症の注意放送
この日は麹町の診療所へ定例訪問日ですが、素晴らしい青空に誘われて
JR四ッ谷駅と半蔵門間をカメラ散歩、コンディションもよく坂道散歩も追加した
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新宿通り
<四谷見付橋>
この場所から見る新宿通りが好きで度々撮影している
前方は皇居半蔵門、この通りを地元では麹町大通りと呼んでいる
素晴らしい青空に気分は上々
四谷見付橋の欄干には、大正2年9月成の銘がある
<真夏の花>
四ッ谷駅から半蔵門に向かう途中にある三角公園、麹町こどもの広場
園内では、早くも百日紅の花が咲き始めていた
白色の百日紅
ビルの窓に写る青空と花木
遠くからはスモークツリーのように見えるが、花の名は不詳です
坂道を歩く
<善国寺坂>
新宿通り北側の谷筋の道へ、四谷と半蔵門の間は坂道が多い
麹町4丁目から市谷駅の方向に下る坂、善国寺が左に有ったのが名の由来です
<坂下の道>
善国寺の坂下から一番町1丁目の交差点へ、アガパンサスを入れ撮影する
<正和坂>
一番町から新宿通り(麹町大通り)へ上がる坂、途中に番町小学校がある
<カフェテラス壱番館>
正午を少し過ぎランチタイム、選んだのは3番目のハンバーグでした
<南法眼寺坂>
斉藤法眼の屋敷が有ったのが由来、この先を更に歩くと靖国通りです
<袖摺坂>
行き交う人の袖がふれるほど狭い坂で有ったのが由来、永井坂に続く
<滝廉太郎居住地跡>
<永井坂>
永井姓の旗本屋敷が両側に有ったのが名の由来、坂の途中から撮影
坂の高低差、カーブ、再び上り坂、よい坂道です、坂の下には東京メトロ麹町駅がある
再び新宿通り
<皇居半蔵門方向>
皇居の奥で向き合う二つの高層ビルは、新丸ビルと丸ビルです
この通りは隅田川から御苑に続く風の道、左(茶色)は麹町警察署、右奥はワコール本社
<オブジェ・2点>
夏の想い出
そよ風
ワコールビルの前を通り半蔵門へ
<内掘通り>
新宿通りの起点から内掘通りへ、三宅坂はこの通りの先にある
<皇居桜田濠>
いつもカメラを向ける、皇居の濠端で最も美しい場所の一つ
梅雨時と思えない好天気、視界もよくこの時期には珍しい景観です
四ッ谷駅と半蔵門を往復、帰宅まで万歩計の数値は11,560歩でした
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次回は、東京下町散歩<かっぱ橋道具街>を紹介します
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東京の桜2014(6)<三宅坂~赤坂・四谷見附> [東京の坂道]
東京の桜 2014(6)
<三宅坂~赤坂・四谷見附>
今年の花見散歩2日目、締めはオフ会の花見と食事会(4月7日公開)ですが
その前に外堀公園、国立劇場を一人歩き、待ち合わせ時間まで余裕があるため
昨年11月と同じコースを辿り、麹町~三宅坂~赤坂見附~四ッ谷へ向かったが
のんびりカメラ散歩を続けていると最後は時間不足、よく歩いた一日でした
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<花見散歩:4月1日>
皇居桜田濠
石垣が多い皇居内掘の中で、桜田濠の景観は土手が曲線を描き美しい
三宅坂を下った正面の建物は警視庁、その左に桜田門がある
<ユリノキ(百合の木)>
モクレン科の高木、皇居周辺にはこの木が多く新芽を出し始めている
三宅坂(内堀通り)
<坂上の方向>
中央のビルの左側が国立劇場(前記事で紹介)、右側に桜田濠がある
坂下の方向
右に青山通り、右に国会議事堂へ向かう道路が見える
青山通り~赤坂見附
青山通りの起点は、赤坂見附ではなく内掘通り
前回歩いて知ったが、大山阿夫利神社への参詣道(国道246号)の起点でもある
最高裁判所の桜(1)・・外堀通り側
最高裁判所は三宅備前守の屋敷跡、三宅坂の名の由来になった
最高裁判所の桜(2)・・青山通り側
<首都高速道路平河町庁舎>
ビルの形状を首都高速道のカーブに合わせて建築、首都高速平河町庁舎です
<赤坂見附跡>
江戸城三十六見附の一つで赤坂御門が有ったが、残る遺構はこの石垣のみ
<富士見坂から青山方向>
指揮者の小澤征爾さんとすれ違い後ろ姿を撮ったが、掲載を遠慮します
弁慶濠~清水谷
<弁慶橋から弁慶濠>
赤プリで親しまれた赤坂プリンスホテルは解体され姿を消した
跡地には、複合ビル(ホテル、オフィス、商業施設)とマンションの2棟が建つそうだ
<清水谷公園>
弁解橋と紀尾井坂の坂下は清水谷と呼ばれた道、その跡地に公園が造られた
公園のソメイヨシノ、シダレザクラは見ごろで、園内を周回する
池の畔で休む人たち
シダレザクラは7分咲きでした
<右大臣大久保公哀悼碑>
大久保利通公は、赤坂御所に向かう途中ここ清水谷で暴漢に襲われ落命
右大臣とは、現在の内閣総理大臣に匹敵する重要な職責である
<湧水井戸>
江戸期は清水が湧き出し通行人の飲み水になっていた これは復元した井戸です
若葉を出したモミジ、花も咲いてている
時計を見ると午後2時30分、急ぎ歩きに切り替え四ッ谷駅へ向かった
紀尾井坂~四ツ谷
<紀尾井坂>
紀尾井の名は、紀州藩、尾張藩、井伊藩の中屋敷があったことに由来する
右はホテルニューオータニ(井伊彦根藩)、左の上智大学の一帯は(尾張徳川家)
花見を楽しむ学生たち、四ッ谷駅に続く土手道です
<JR四ッ谷駅>
四谷見附跡は右側、JRで新宿駅へ向かう (この写真は朝の撮影です)
この後、オフ会で新宿御苑へそして四谷から市谷へひと駅散歩
この日の歩数は29,000歩、3万歩には届かなかったがよく歩いた
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次回は、東京の桜<大学通りの桜>を紹介します
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東京坂道散歩(55)<小石川・白山台地の坂> [東京の坂道]
東京坂道散歩(55)
<小石川・白山台地の坂>
小石川植物園の探梅(1/30公開)の次に、横須賀、昭和記念公園などの記事を
挟みましたが、植物園への行き帰りに歩いた坂道散歩(2回)に戻します
文京区の地形は起伏が大きく坂道が多い、歩き始めた湯立坂は小石川台地
そして千川通りから上る網干坂、氷川坂、小石川植物園は白山台地にある
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<撮影:1月26日>
茗荷谷駅~簸川神社
<湯立坂(ゆだてさか)>
東京メトロ茗荷谷駅から春日通りを渡り、千川通りの方向に行くとこの坂がある
昔この坂の下に川があり氷川神社に渡れなかったので、神社の氏子は川の手前で
湯花を捧げたためにこの名が付いたと言う、左は筑波大学文京キャンパスです
優雅な坂名「湯立」の説明
湯花とは湯の沸騰時に上がる泡のこと、神社では巫女などが笹の葉につけ参詣人に
かけ清める儀式を「湯立」と呼ぶ、右の旧磯野家住宅は国の重要文化財に指定されている
坂の下から振り返る
湯立坂に由来する坂下の河川は千川(小砂利が多く小石川と呼んだ)
窪町東公園(湯立坂の坂下)
占春園の入口にある公園の水車小屋、実は公衆トイレでした
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占 春 園
徳川光圀の弟松平ヨ頼元を藩祖とする、陸奥守山藩2万石の上・中屋敷の地
占春園は松平家の屋敷内の庭園で、明治36年(1903)に東京高等師範学校となった
東京教育大学を経て現在は筑波大学の敷地の一部、公園として一般開放している
占春園散策
現在は、筑波大学付属小学校の自然観察園として同校が管理しているが
東京都が管理する公園とは異なり予算不足なのか手入れが悪い
嘉納治五郎翁像と碑文(要点)
明治20年から20年間、東京高等師範学校校長の要職につき師範教育の振興に貢献
また講道館柔道の創始者、国際オリンピック委員としても功績を残した
筑波大学キャンパス内で探梅
千川通り
千川沿いの一帯は「氷川たんぼ」と言われた湿地帯、昭和9年に暗渠になっている
千川は古くは「小石川」と呼ばれていたが、いつから千川に変わったのか分からない
簸川神社(ひかわじんじゃ)
社伝によれば簸川神社の創建は古く、源義家が奥州平定に向かう際に祈願した古社
小石川植物園の地にあったが、白山御殿造営のため元禄12年(1699)に遷座した
小石川、巣鴨の総社として江戸名所の一つであったと言う
本殿で参拝
御祭神は、素盞鳴命(すさのおのみこと)ほか2神を祀る
鳥居から千川の方向を展望
網干坂(あぼしさか)
白山台地から千川に下る坂道、小石川台地に上がる湯立坂と向かい合っている
坂下の谷は入江で舟の出入りがあり、猟師が網を干したのが坂名の由来と言う
網干坂を坂の上から
道路に凹凸あり
網干坂と氷川坂の坂上をつなぐ道、走行する車の徐行を促しているのであろうか
氷川坂(ひかわさか)
氷川神社に接した坂でこの名が付いたが、氷川神社の呼称は前述の通り簸川神社
坂の下で網干坂と一緒になる急勾配の坂、親子3人が私を追い越して行ったが危険!
氷川坂を坂の下から
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再び大雪 (2月14日)
出窓のポインセチアと外の雪、赤と白のコラボレーションです(午後4時20分)
雪をかぶった庭木はスオウ(蘇芳)、その左は山茶花です 朝まで降り続くようです
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次回は、東京坂道散歩<小石川植物園~播磨坂>を紹介します
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雨にも負けず<師走の坂道散歩> [東京の坂道]
雨にも負けず
<師走の坂道散歩>
この日は何時もの診療所通い、麹町に行くと周辺の散歩を常としているが
師走の天気は安定せず朝から雨模様、しかし晴れ間が覗き始めたのを幸いと
半蔵門から赤坂見附、四ツ谷へと歩き始めたが、その途中から天気が急変
雨にも負けずと書いているが、今年の締めは雹と雨に悩まされた散歩になった
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<撮影:12月20日>
半蔵門~三宅坂
<桜田濠を三宅坂へ>
青空に木の実、皇居周辺に多い街路樹ユリノキの実です
すっかり葉を落とした枝先の実、今年は特に多いように思われる
桜田濠の遠景とユリノキの枝を撮影
お濠端を歩いていると季節はずれの・・菜の花が!
木瓜(ボケ)と菜の花、何れの花も季節外れです
三宅坂から警視庁
内堀通りを最高裁判所側に渡りながら撮影、右方向に国会議事堂がある
三宅坂~赤坂見附
<青山通り(国道246号線)>
青山通りは赤坂見附から渋谷までと思っていたが、起点は三宅坂と初めて知った
玉川通りを経て大山阿夫利神社に向かう参詣道(国道246号)の一つが青山通りである
最高裁判所
葉を落とした染井吉野、満開のときは撮影ポイントと思われる(メモ)
最高裁判所は三宅備前守の屋敷跡、三宅坂の由来になった
日が差す坂道
右の三宅坂ビルは民主党本部、正面奥は参議院・衆議院の議員会館です
再び・青山通り(富士見坂)
平河町から赤坂見附までは富士見坂、昔は坂の上から富士山が見えたようだ
青山通りの上は首都高速4号新宿線、この先で都心循環線に変わる
首都高速都心環状線
ビルの形状を、わざわざ首都高速道路のカーブに合わせて建築
この建物は首都高速の平河町庁舎、そうと分かれば納得できる設計である
諏訪坂(プリンス通り)
別名はプリンス通り、赤坂プリンスホテルは解体中で洋館のみが残っていた
晴れ間があった空も黒い雲に覆われ、今にも雨が降りだしそうな天気に急変する
赤坂見附跡
江戸城三十六見附の一つで赤坂御門が有ったが、遺構で残るのはこの石垣のみ
この辺りで雹(ヒョウ)が降り出す、報道では直径7ミリほどの雹と伝えていた
赤坂見附~四ッ谷駅
弁慶橋を渡り清水谷へ
橋の下は皇居外堀の弁慶濠、降り続く霰が濠に水紋をつくっている
解体が進む、赤坂プリンスホテル(40階140m)の工事現場
跡地には、複合ビル(ホテル・オフィス・商業施設)と高層マンションの2棟が建つそうだ
清水谷公園
ホテルニューオータニで30分ほど雨宿りをしたが止む気配が無い
赤坂見附に戻るかと思案をしたが、距離は遠いが四ッ谷駅まで歩くことにした
紀伊徳川家の裏側、清水が湧き出てので清水谷と呼ばれた
清水谷(紀尾井町通り)
左は紀伊徳川家、右は彦根藩井伊家、坂の左手に清水谷公園がある
江戸時代は、もっと深い谷筋の道で有ったと思われる
紀尾井坂の坂下
紀尾井坂の名は、紀伊藩、尾張藩、彦根藩井伊家の中屋敷があったことに由来する
左はホテルニューオータニ(井伊家)、右の上智大学一帯は(尾張徳川家)
紀尾井坂の坂上
正面の茶色のビルは参議院議員宿舎、右手はホテルニューオータニです
大久保利光が暴漢に襲われ落命したのは紀尾井坂である
<四ッ谷駅>
新宿通りを渡るとゴールの四ツ谷駅、雨は本降りに変わっていた
今年最後の坂道散歩は残念な結果に終わったが、このような日もあると納得させた
四谷見附跡
来年の春、同じコースをもう一度歩きたいと思っている、勿論晴れた日に!
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次回は、家族で楽しんだ<ボーリング&忘年会>を紹介します
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麻布十番<古寺&坂道散歩> [東京の坂道]
麻布十番
<古寺&坂道散歩>
越路吹雪、岩谷時子、お二人のテレビドラマを見て妻が行きたいと言いだした
それは越路吹雪さんの記念碑、昨年私が話したのを覚えていたようだ
場所は麻布山善福寺、境内の樹齢750年以上の逆さイチョウも見ごろであろう
妻は記念碑、私は大イチョウ、二人は別々の目的で善福寺に行くことにした
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<撮影:11月26日>
麻布十番
この商店街を初めて歩いた時は、魚屋、肉屋、野菜屋、銭湯などもあり
都会の真ん中に残された商店街という印象であったが、最近は雰囲気が変わった
スタートは東京メトロ麻布十番駅、行列のできる「たい焼き屋」は休日であった
麻布山善福寺
鎌倉時代、越後国に流されていた親鸞聖人が許されて京へ上る途中に訪れた
その時に迎えた了海上人は、一山を上げて真言宗から浄土真宗に改宗したという
背後のマンションは「元赤坂ヒルズ」、善福寺一帯の寺院(9寺)を威圧し違和感大
<勅使門とイチョウ>
麻布の地名の由来は、善福寺の山号「麻布山」から採ったという説がある
虎ノ門の地名は善福寺の山門、杉並区の善福寺公園は奥の院跡(飛び地)であったと言う
<本 堂>
慶長12年(1607)に東本願寺八尾別院の本堂として建立し東本願寺の御影堂の役を
約10年間勤めた建物を、天明の大火のあとに移築した由緒のある本堂という
<親鸞聖人の像>
背後は墓地、左に逆さイチョウ、右に越路吹雪の碑がある
<公孫樹・逆さイチョウ>
親鸞聖人がみずから植えたとされる古木で、国の天然記念物に指定されている
伝承では親鸞聖人が地に差した杖から成長したという
墓地(右)の撮影が禁止されているので、イチョウ全体を撮る事ができない
樹齢750年以上、幹の周囲は10.4m、東京最大のイチョウの巨樹である
二つの石柱には 「祖師聖人御杖銀杏樹」 「天然記念物善福寺ノ公孫樹」と記している
公孫樹とは、孫の代になっても実があると言うイチョウの別名です
逆さイチョウの名の由来は、前後の写真でお分かりのように
根がせり上がり、そして枝先が下に伸びている事から名付けられた
戦災によりかなり損傷を受けたと聞くが、それでも往時の偉観を留めている
イチョウには椰子系の植物(名は?)が宿り木をしている
<越路吹雪の碑>
宝塚のトップスターを経て、昭和を代表する歌手になった越路吹雪さん
妻のお目当てはこの碑、今も芸能人がお参りにくるそうだ、墓所は川崎市に有る
発起人と世話人の氏名
<ハリスの記念碑>
安政5年(1859)、日米修好通商条約に基づき、初代アメリカ合衆国公使館が
善福寺内に設けられ、タウンゼント・ハリス公使以下の館員が駐在した
昭和35年(1960)、日米修好通商百年を記念してこの地に再建された
境内には福沢諭吉翁の墓所がある
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麻布坂道散歩
<仙 台 坂>
この坂の南側一帯には仙台藩伊達家の下屋敷があったので、この名が付いた
この標識の右側は善福寺、左には韓国大使館があり警察官が物々しく警備していた
この辺りには、フランス、ドイツ、スイス、イランなど各国の大使館が集中しているが
警察官の警備を見たのは韓国大使館のみ、これは都民の税金?、中国大使館は不明?
<氷川神社>
アルゼンチン大使館の向かい側にある神社、境内に入り参拝する
高層マンション「元赤坂ヒルズ」、正面沿道で咲いていた花
<大 黒 坂>
坂の中腹の北側に大黒天を祀る日蓮宗大法寺があり、この名称が付いた
大黒坂の坂下 【童謡「赤い靴」の女の子の碑】 女の子にはモデルがあった・・・
宣教師に連れられアメリカで幸せに暮らしていると信じていた母親が、北海道で語った言葉が
野口雨情の詩になったが、実際は麻布十番に近い孤児院で9歳のときに寂しく病死していた
<狸 坂>
「人をばかす狸が出没した」と記載、この一帯は深い森であったようだ
<暗 闇 坂>
東京23区の坂道には、幽霊坂と共に暗闇坂と呼ぶ坂道が数ヶ所ある
この坂道も樹木に覆われ昼間も暗くこの名が付いたが、今もその雰囲気が残っている
暗闇坂を下から見ると、左に大きく曲がる急勾配の美しい坂である
左の赤レンガ塀はオーストリア大使館です、 警察官は一人もいない
<再び麻布十番>
商店街の通りから、西の方向に目を移すと六本木ヒルズが目前に見える
時間は正午過ぎ、商店街の喫茶店で洋食ランチを食べたが美味しい店であった
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次回は、旧芝離宮恩賜庭園<晩秋の庭園>を紹介します
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東京坂道散歩(49)><雑司が谷 鬼子母神> [東京の坂道]
東京坂道散歩(49)
<雑司が谷 鬼子母神>
今回の東京坂道散歩、都電荒川線の学習院下駅を11時半にスタートし
締めくくりは雑司が谷の鬼子母神と大鳥神社、そして東京メトロで帰路に付いた
少し肌寒い一日、大した距離を歩いていないが要した時間は約3時間
春を待つこの時期、足腰の鍛錬には散歩が良いと実感した一日であった
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雑司が谷へ
<表 参 道>
鬼子母神表参道の入口、目白通りの向こう側は豊島区雑司が谷
この撮影場所の背後は、今回の坂道散歩で最初に紹介した宿坂です
<都電荒川線の踏切>
右は都電雑司が谷駅、踏切を渡り真っすぐ進むと鬼子母神に着く
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雑司が谷 鬼子母神
永禄4年(1561)、雑司の役であった柳下若狭守の家臣山村丹右衛門が
鬼子母神像を清土(目白台)辺りで掘り出し、東陽坊(法明寺)に納め、その後
天正6年(1578)、この地の村の人々が堂宇を建てたのが始まりという
鬼子母神について
鬼子母神は毘沙門天に連なるインドの神の妻、500人以上の子の母でありながら
他人の子を捕らえ食べてしまうため、釈迦は彼女が最も愛していた末子を隠し
子を失う母親の苦しみを悟らせ仏教に帰依させた、その後は仏法の守護神となり
広く、子授け・安産・子育ての鬼神として祭られたというが、少し不気味ですね
<鬼子母神堂>
鬼子母神は、南池袋にある日蓮宗威光山法明寺の飛び地境内
本堂は寛文4年(1664)に加賀藩主前田利常の息女で、安芸浅野家に嫁した
目昌院殿英心の寄進により建立、東京都有形文化財に指定されている
<堂の扁額>
正式な鬼子母神の字体は、鬼の字の上に点が付いていない
鬼から戒心したと言う意味であろうか?、鬼子母神の母は吉祥天だという
<絵 馬>
絵馬の絵は石榴(ざくろ)、これは鬼子母神が手に石榴を乗せている事に由来
石榴は小さな実をいっぱい詰め弾ける事が、子宝に通じるのであろう
<手創り市>
境内では手創り市が開かれていた、出店の殆どは若者たちの創作品
手作りではなく、手創りとしているのはその意味であろう
<武芳稲荷神社と出店>
初めてきた時にも感じたが、境内は土汚れが目立ち印象が好くない
<上川口屋>
やはり子供が多いのか、この駄菓子屋さんはまだ営業を続けていた
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大鳥神社
元は鬼子母神の境内に鷺明神として祀られていたが、明治の神仏分離により
鬼子母神を氏神とする事ができなくなり、鷺明神を大鳥神社と改称し分離
土地の確保も難しかったが、旧幕臣矢嶋氏の宅地寄進により当地に鎮座した
<正面の狛犬>
浅草鷺神社などと共に、11月には酉の市が行われている
<恵比寿尊>
雑司が谷七福神の恵比寿像、草鞋を履いている姿が珍しい
<境 内>
鬼子母神と共に、大鳥神社の境内でも手創り市が行われていた
<都電荒川線>
大鳥神社の門前には、都電荒川線の線路が有る
線路も向こうは東京メトロの雑司が谷駅、新宿を経由し帰路に付いた
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次回は、高層ビルが見える街<中野坂上~西新宿>を紹介します
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東京坂道散歩(48)<目白台・急坂&名坂> [東京の坂道]
東京坂道散歩(48)
<目白台・急坂&名坂>
この日、歩き始めた頃は寒さも感じたが、午後になると気温も上昇し約7℃
高台の目白通りから坂の下まで、上り下りを繰り返していると体も温まる
今まで東京の坂道を何度歩いたか数えていないが、記事の数はこれで49回目
今回は、富士見坂(日無坂)、豊坂を歩く機会を得て満足することができた
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目白台にて
<高台から展望>
江戸時代は、神田川や早稲田の田園が望める景勝地で有ったであろう
この日は目白台の坂道を、3回半上り下りした事になる
<この店でランチ>
目白通りで見つけたイタリアレストラン
ランチは美味しいパスタ、疲れを癒して坂道散歩を再開した
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富士見坂
<私が選ぶ名坂>
富士見坂の途中から二つに分岐する、坂道らしい坂道です
竹塀で囲まれた三角地に槙のような樹木、いつまでも残してほしい住宅です
明治百年を記念した富士見坂の銘板、45年前の昭和43年(1968年)
当時は富士山が見える坂として設置したので有ろうが、今は見えない
富士山を遮っているのは、新宿副都心の高層ビル群
前回の記事でも書いたが、左の日無坂が文京区と豊島区の区境です
富士見坂の坂下で撮影、突き当たりに目白通りの信号が見える
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稲 荷 坂
富士見坂と並行して上下する長い急坂の道です
自転車を押しているのは小学校高学年の男児、乗って上るのは難しいでしょう
坂の途中から撮影、坂の下にある稲荷社が名の由来だが
民家の石塀の中にあったので撮影を遠慮した
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豊坂(とよさか)
坂上にある豊川稲荷が名の由来、神田川には豊橋(ゆたかはし)も架かっている
この写真の右上に、目白御殿で知られる田中角栄邸(現真紀子邸)がある
「文京区教育委員会の標識」です・・どうぞ
坂の名は、坂下に豊川稲荷社があるところから名づけられた、江戸期にこの一帯は大岡主膳正の下屋敷で、 明治になって開発された坂である。坂を下ると神田川にかかる豊橋があり、坂を上ると日本女子大の前に出る。 目白台に住んだ大町桂月は『東京遊行木記』に、明治末期のこのあたりの路上風景を次のように述べている。 「目白台に上れば女子大学校程近し、さきに早稲田大学の辺りを通りける時、路上の行人はほとんど 皆男の学生なりしが、ここでは海老茶袴をつけたる女学生ぞろぞろ来るをみるにつけ、云々」 坂下の神田川は井之頭池に源を発し、途中、善福寺川、妙正寺川を合わせて流量を増し隅田川に注いでいる。江戸時代、大滝橋の辺りに大洗を築いて分水し、小日向台地の下を素堀で通し江戸市民の飲料水とした、これが神田上水である。
坂の途中から坂下を
S字カーブを描いた急勾配の美しい坂道です
坂の途中から坂上を
坂を上ると目白通り、道路を渡ると日本女子大学がある
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目白・豊川稲荷
<境内と欅の大木>
全国に伏見稲荷大社を総本宮とする神道系の稲荷神社が多いが
ここは荼枳尼天を祀る仏教系の稲荷社、その由緒を調べたが分からない
二つの鳥居をくぐった正面に、稲荷神社が建っているが
右隣に建つ、豊川荼枳尼天の提灯を懸けたこの社が稲荷社であろう
目白台の坂下に、豊川の名が付いた銭湯「豊川浴泉」があった
豊川の名が付いている事から、豊川稲荷と共に親しまれたと思われる
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次回は、東京坂道散歩(49)<雑司が谷鬼子母神>を紹介します
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東京坂道散歩(47)<目白台・路地坂と古寺> [東京の坂道]
東京坂道散歩(47)
<目白台・路地坂と古寺>
JR目白駅から学習院の辺りは豊島区目白、文京区には目白台の地名が有る
何れも目白通りに沿っているが、前記事の目白不動と今回の根生院、南蔵院は
二つの町に挟まれながら豊島区高田1~2丁目、同地のマンションなども
目白台を冠している事が多い、この記事では分かりやすい目白台で進めます
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根 生 院
宿坂(目白不動金乗院)の四つ角で、根生院の石柱を妻が見つけた
通りがかった人に聞くと、この先に有ると教えられ早速向かった
<山 門>
由緒では、三代将軍家光の乳母春日の局が大和の国長谷寺より栄誉を招き
神田白壁町に開山、代々幕府の祈願所であり壇信徒のない寺院と記されている
明治36年に当地に移転したが、戦火に遭い山門(赤門)を除いて焼失した
<本 堂>
寺号:金剛寶山根生院円壽寺 宗派:真言宗豊山(奈良長谷寺の末寺)
本堂は平成14年に建立した新しい建物である
<本尊:薬師瑠璃光如来>
衣を身にまとった美しい薬師如来像、日光、月光菩薩を両脇に安置
本堂のガラス越しに撮影をする、本尊は秘仏のため御前立ちと思われる
<大日如来像>
寛文6年(1666)の建立、綺麗な顔立ちをした保存状態のよい石仏でした
豊島区内で最大級の石仏と記されていた
<二体の石仏>
(左)本供養庚申天子(元禄3年 1690) (右)青面金剛庚申塔(天保6年 1635)
この日(2月17日)の都心は氷点下、日中の最高気温も約7℃で寒い
境内の水鉢には氷が張り(木の葉を置いて撮影)、霜柱が立っていた
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南 蔵 院
寺号:大鏡山南蔵院薬師寺 宗派:真言宗豊山
開山は室町時代の円成比丘、本尊の薬師如来像は奥州藤原氏の持仏といわれ
円成が奥州の農家で入手し奉送、草庵を建て安置したのが開創という
<名作怪談乳房榎ゆかりの地>
三遊亭円朝が南蔵院の旧本堂天井の龍を見て創作した講談
中村勘三郎の追悼番組を見ていると、怪談乳房榎の場面で早代わりを演じていた
<六地蔵と石仏>
大震災や戦災の後で集められたのか、金乗院と共に石仏が非常に多い
当院は八重紅枝垂桜の名所、神田川の桜を見に来たときに是非観賞したい
馬頭観音、庚申塔、地蔵菩薩などが並んでいた
<本 堂>
本堂に上る階段にはフェンスが設けられ入ることができない
花の寺とも呼ばれているが、住職の好みなのか鉢植えの花が並んでいる
(左):クリスアスローズ (右):シロスイセン
南蔵院から150mほど歩くと神田川(面影橋)に着く
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小布施坂
<坂の上辺り>
江戸時代、 二つの大名屋敷の境にあった野良道を新道として開いた坂道
明治時代に株式の仲買いで財をなした小布施新三郎の屋敷があったのが由来
坂の一部には「人に優しく」と階段を設けていた、坂の上は目白通りです
<坂の途中から>
この坂道は文京区目白台、長い石段の坂になっている
次の日無坂もそうだが、車も通れない路地坂です
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日 無 坂
<坂の中間>
文京区の西端と豊島区との境にある坂道、かなり急坂のため手すりが有る
江戸時代は樹木が生い茂り日中でも暗かったので日無坂の名が付いた
<坂の上から>
神田川に下る細く長い階段坂、左は文京区目白台、右は豊島区高田町です
テレビドラマのロケ地に何度も使われるそうだ
<日無坂の最上部>
左は日無坂、右が富士見坂です、すっかりお気に入りの坂になった
富士見坂は、次回の記事で改めて紹介します
文京区は坂道の説明標識が整っているが、豊島区は行き届いていない
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次回は、東京坂道散歩(48)<目白台の三坂>を紹介します
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東京坂道散歩(46)<のぞき坂・目白不動> [東京の坂道]
東京坂道散歩(46)
<のぞき坂・目白不動>
早春の花がようやく咲き始めたは言え、花と緑を満喫できる季節にはまだ遠い
この時期は、少し肌寒さを感じても街中の風物を訪ね歩くには適している
そこで目白台の坂道散歩を兼ね、目白不動、雑司が谷鬼子母神の参拝を計画し
妻に伝えると二つ返事で行きたいと言う、早速、着膨れ姿で出発をした
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散歩日:2月17日(日)
都電荒川線
<荒川線大塚駅>
JR目白駅から歩く予定でいたが、地図を見ると大塚駅から学習院下まで
都電荒川線を利用するのが、コース順から判断し便利で有ることが分かった
都電の駅はJR大塚駅のガード下、このレトロな車両は三ノ輪行きです
JR大塚駅を発車すると学習院下は四つ目の駅
車窓から景色を楽しんでいると僅か10分で下車駅に着く
<学習院下>
この駅が、今回の散歩のスタート地点です、踏切を渡らず右に向かうと
目的の坂道がある、目白不動へは歩いて約5分の距離です
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のぞき坂
学習院下駅から東方向に約70mほど歩くと、この道と交差する
前方の坂が、2車線道路では東京一の急坂と言われている「のぞき坂」です
妻に、目白不動で待つように言ったが、一緒に登るとついてきた
<坂の下から>
別名を胸突坂と言われているが、まさにその通りです
この坂を上ると、JR目白駅、学習院、椿山荘などに続く目白通りです
<坂の途中から>
(左):自転車で挑戦する男性 (右):後から来た仲間はたまらず下車
左(写真)の男性は、とうとう坂上に登りきった、凄い脚力です
<坂の上から>
坂の上から見下ろすと 「急坂」であることを実感できる・・・如何でしょうか!
「のぞき坂」の名の由来も、なるほどと頷ける眺めです
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宿 坂
<坂の上から>
目白通りから、のぞき坂に並行して南側に下る長い坂です
坂の下は神田川の面影橋、大田道灌ゆかりの「山吹の里の碑」がある
<坂の下辺り>
目白不動金乗院の門前に到着、振り返ると坂の長さがよく分かる
神田川までは中間辺り、この下は緩やかな坂になる
<宿坂道の説明>
中世の頃、鎌倉街道の道筋で、近くに「宿坂の関」が有ったのが由来と思われる
300年ほど前は、樹木が生い茂り狐狸の類が人を化かしたと伝わっている
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目白不動 金乗院
寺号:神霊山金乗院慈眼寺 宗派:真言宗豊山派
天正年間に、永順法印が聖観世音菩薩を勧請し観音堂を築いたのが創建
<山門の扁額>
目白不動尊は、1kmほど離れた新長谷寺(総本山・奈良長谷寺)にあったが
戦災で壊滅的な被害を受け廃寺となり、金乗院に移され合寺した
<山門前の石碑>
(左):江戸仮名文字で「はせ寺」と刻まれ、横には東豊山新長谷寺の銘があった
(左奥)は、江戸八十八箇所之内、第三十八番目 神霊山金乗寺
(右):不動明王像、目白(享保六年丑天)と刻まれている まさに合寺である
<本 堂>
本尊の聖観世音菩薩は厨子に納められ拝観できず
白い円は、次の倶利伽羅(くりから)不動庚申塔でです
<倶利伽羅不動庚申塔>
龍が剣に巻きついた形の貴重な庚申塔です、寛文6年(1666)の建立
倶利伽羅大龍は不動明王の化身、下には三猿(見ざる、言わざる、聞かざる)
(左):庚申塔は寛文八年、地蔵菩薩は寛文十年、約340年前の建立です
(右):鍔塚、寛文庚申秋九月と読めたが??
<不 動 堂>
目白不動明王は、江戸守護の五色不動(青・黄・赤・白・黒)の随一という
目白の号は三代将軍家光は贈られたもの、目白など地名の起源になっている
将軍家の庇護を受けていた時代と比べると、今の不動堂は如何なものか?
不動堂のガラス戸から不動明王像を撮影
本尊は秘仏とされているので、この不動明王は御前立ちの像でしょう
<宿坂の下から>
目白不動金乗院の名がみえる、矢印は不動堂です
この道を、左に行くと都電学習院下駅、右は次に紹介する根生院がある
由井正雪と幕府転覆を謀り処刑された、丸橋忠弥(槍の達人)の墓があった
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次回は、東京坂道散歩(47)<目白路地坂・古寺>を紹介します
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